死線を越えて

 砂の中から出ているのは、蠅男の頸だったのである。悪逆残忍、たとえるに物なき殺人魔・蠅男の首に外《ほか》ならなかった。「お竜《りゅう》、しっかり圧《おさ》えていろ」 蠅男は底力のある低い声で呶鳴《どな》った。 お竜! するといま帆村の頸《くび》を圧《おさ》えつけているのは、蠅男の情婦のお竜だったのだ。 よくもここまで帆村を引ずりこんだものである。いや、これは蠅男が一歩先の先まわりをして、ここに陥穽《かんせい》を設けておいたものであろう。帆村の想像していたとおり、天王寺公園付近に蠅男は隠れていて、そこを縄ばりとする仲間の誰彼と、緊密な連絡をとっていたものらしい。 帆村はいまや風前の灯であった。お竜がこの上グッと手に力を入れるか、それとも蠅男が砂の中から飛びついてくれば、もうおしまいだった。 帆村一生の不覚だった。 彼は頸を締めつけられるあまり、だんだん朦朧《もうろう》となってくる意識の中で、なんとかしてこの危難からのがれる工夫はないものかと、働かぬ頭脳に必死の鞭《むち》をうちつづけた。

   死線を越えて

 稀代《きだい》の怪魔《かいま》「蠅男」の暴逆《ぼうぎゃく》のあとを追うて苦闘また苦闘、神のような智謀をかたむけて、しかも勇猛果敢な探偵ぶりを見せた青年探偵帆村荘六も、いま一歩というところで、無念にも蠅男とお竜の術中に陥《おちい》り、いま湯気に煙る砂風呂のうちに惨殺《ざんさつ》されようとしているのであった。なんという無慚《むざん》、なんという口惜しさであろう。 お竜の十本の指がやさしき女とは思われぬ恐ろしい力でもって、帆村の頸を左右から刻一刻と締めつけてくるのだった。起き上ろうとするが、生憎《あいにく》首のところまで砂に埋っており、肩の上からはお竜のはちきれるように肥えた膝頭が、盤石のような重味となって圧《お》しつけているのであった。これでは身動きさえできない。(参った。――しかしまだ血路の一つや二つはありそうなものだが!) 帆村は全身の血を脳髄のなかに送って、死線を越えようと努力をつづけていた。「こ、殺される前に――」 と、帆村はふりしぼるような声をあげた。「しッ、静かにしろ」 と、蠅男は依然として砂のなかから首だけだして眼を剥《む》いた。

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